あの世には何一つ持ってはいけない、ということ

先日、古い小屋を解体するので中にあるもの何でも持っていっていい、という機会に恵まれました。

持ち主の高齢のご夫婦は既に施設に入られていて、そのお子さん達がその小屋を解体することに決められたとのこと。

古い小屋なので、多分ご夫婦が元気でいらした時からほとんどいらない物しか入っていなかったのでしょう。

特に何か貴重なものがある、という訳ではなかったのですが古い物に興味のある私たち夫婦は、のこのことその小屋に出掛けていきました。

めぼしい物は特になかったものの、見ているだけで何だか楽しくて埃まみれになりながらあれこれ物色しました。

新聞紙にくるまれたお重の数々、たくさんの大工道具、火鉢、大量のとっくり、古い水筒、瓶などなど。

朽ちた箪笥の中からはいくつもの、箱に入った風呂敷が出てきました。昔は内祝いの定番は風呂敷だったようですね。のし紙がついたままの物もたくさんありました。

捨てるのが面倒で小屋に放っておいたようなものばかりだったけれど、それでもしっかりした一枚板のテーブルや状態の良い木箱などがあって、あと何に使うのか古い足踏みミシンを夫が気に入ったのでそれももらってきました。

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足踏みミシンは夫が半日がかりで磨きをかけたら本当に美しい佇まいとなりました。

そして今回の体験から深く思うことがありました。

1.持ち主がいなければただのゴミ

それを手に入れた時に持ち主にどんな思いがあったとかそんなことは関係なく、所有者がいなければ大抵の物はもう単なるゴミ、廃棄物にしか過ぎないということ。

もちろん高価な物で資産価値があれば家族も大事にするか、売りにだすかするかもしれないし、本人が見出したと同じ価値を家族が認めれば大切に引き継がれていくのかもしれない。

でも大抵のものは処分するにもお金がかかる負の遺産に過ぎないという悲しい事実。

内祝いでもらった風呂敷、お祝い品で捨てがたかったのかな。もらった時の、捨てずにとっておいた時の、ちょっとしたそんな思いも何もかもただの厄介なゴミなのだ。

くだらない物は普段から極力増やすべきではないな、そんなことをひしひしと感じた。

2.どんな物も、あの世には何一つ持っていけやしない

小屋にあったのはいらない物ばかりだったとは思うけれど、例え大事に手元に置いておいた物ですら何一つあの世には持っていけないということ。

ご夫婦がどんな施設に入られているのかは分からないけれど、施設にすら持っていけるものは限られているんだろう。

そう思うと「物」って何だろう、って。

そんなことを思っている時にたまたま古本で100円で買った吉本ばななのエッセイにこんなことが書いてあった。

わたしたちは、死ぬときに、お金も家も車も恋人も家族も、何も持って行けない。自分が着ている服も身につけている指輪も、何ひとつ持って行けないのだ。持って行けるのは、もう持ちきれないほどたくさんになっている思い出だけだ〜中略〜よき思い出を作ることだけが、人生でできることなのではないか、そう思う。      人生の旅をゆく より

どんなに気に入って手に入れた器もあの世には持っていけない。でもその器を眺めてうっとりした幸せな気持ちや、楽しく家族と食事をしたことや、そんなことはきっと思い出として魂に蓄えられてあの世に持っていけるのかもしれない。

そうであるとしたら、魂レベルで思い出に残る、そんな物しかもう増やしたくはない。そんなことを思ったりした。それは高い、安いではなくて。

古い小屋で過ごした数時間は、これからの人生を考えさせられる示唆に富む時間となりました。

今回はそんな内容のブログでした。