お茶のお稽古に行くと毎回、お稽古の前に奥田正造という方の書かれた「茶味」という本を読むということは以前も書きました。(前回のブログはこちら)前回のお稽古で先生が「茶味」の中から器の章を読んでくださり、これはしっかり読み込まねば、と思ったので覚えとして記します。
奥田正造 茶味
奥田正造さんは明治17年岐阜県高山市生まれ。後に成蹊女学校の校長を勤められた教育者で、大正8年にこの「茶味」という本を出版されています。幼少期に表千家、大学卒業後に有楽流を学び独自の手前を考案され「法母庵茶道」として受け継がれているそうです。
この「茶味」という本、文体が古臭く少し読むのに苦労します。一度読んですぐに理解できるというものではなく、何度も読み込んで身体に染み込ませていくような、そんな本です。
以前調べた時にはアマゾンでも古本しかなく、値段もすごく高かったのですが改めて調べたら新品在庫が定価だったので早速購入してみました。あと残り1冊でしたよ。興味のある方はどうぞ。
第8章 器
珍器に対する欲は同じく物塵の汚れである。
という厳しい出だしで始まるこの章。高価な器や珍しい器などを品評したり、欲しがったり、また高価な器を値切って安く買いたいと思ったり、そういったこと全ては愚かである、というようなことが書かれています。
真に値ある器とは、譬えば父母の手澤の存するという様な、その人に取って二なき器のことである。従って甲に貴いものでも、己に貴いとは限らない。
人の価値観ではなくて、自分の価値観が大事ということですかね。そんなことがこの後も繰り返し書かれています。利休好みというのは利休にとっての定尺であり、それぞれの「身に適うた器」が大事と利休も言っているそうです。また利休を崇拝して全て利休が良いと言ったことを真似ていることを「おろかさの至り」というようにも書かれていました。
器物は、主人の心持ちを出す手段であり、方便たるに過ぎないということに眼がつけば、珍奇を揃えるよりは、有り合わせで、手前を真にすることが、貴いのはいう迄もない。手前の真とは心の真である。
心を込めて器を扱い良い手前をすることがお客にその器の価値を伝えることになる、というような解釈で良いでしょうか。
この章は禅茶録からの引用で締められています。
語に『円虚清浄の一心を以て器となす』と、これ茶道最上の器である。
ちょっと私にはまだこの最後の部分が真には理解できないのですが、結局のところ器その物が大事なのではなくてその物を清潔に丁寧に扱う心持ちが大事、それが器の価値となる、というようなことなんでしょうか。
器に関する興味深いドキュメンタリー
話題は突然かわりますが、茶味を読んでいる時に、FacebookでKさんがこんな映像をシェアされているのを見つけました。
民族文化映像研究所所蔵の「うつわ-食器の文化」という1975年に製作されたドキュメンタリーです。
解説は宮本常一。文化人類学的にみる器という物の起源。根源的な役割。人間の知恵。ここから茶の湯までの道のりなど考えると実に面白いですね。続きが観たくてたまりません。
この映像、上映会用にレンタルできるみたいです。上映会開催したら観たい方いらっしゃいますか?企画してみようかな。
ということで器についてのあれこれをちょっとまとまりはありませんが書いてみました。
GW中は各地で陶器祭りが開催されています。器を選ぶ時にちょっとこんなことも思ってみるとまた見方が変わるかもしれませんね。
最後におまけ写真
先輩のお点前。
早く先輩に追いつけるようになりたいものです。